仙台一高バスケットボール部の歴史6 |
平成時代 平成元(1989)年〜 |
バスケットボール部は県高校総体を制すること11度、インターハイ出場13回という実績を有し、県下高校バスケットボール界において強豪、名門チームとしてあまねく知られている。インターハイでの最高成績は昭和43年、広島インターハイにおけるベスト4である。これらは他のクラブと同様、コーチ、OB等の献身的な指導、支援と、クラブ員の努力、精進の賜物である。また例年、レベルの高いチーム力を維持しているのは、この伝統に加え、昭和53年冬より、毎年秋田県能代市に遠征し、天下の強豪、秋田県立能代工業高等学校チームと練習試合を繰り返し、多大な教訓を得ているからでもある。 平成2年のインターハイは地元、宮城県で開催されることが決定して、本校バスケットボール部は名門の維持にかけても出場せんものと、いっそう練習に励んだのであった。平成元年度、6月3日からの県総体は準々決勝で仙台育英高を、準決勝では宮城広瀬高をそれぞれ劇的な大逆転で下し、決勝へ進出した。決勝の相手は仙台高校で、善戦及ばず惜敗し、東北大会出場権を得たにとどまった。6月24日の東北大会(仙台)は2回戦で日大山形高に敗れた。同年秋の新人県大会で思わぬ不覚をとったこともあり、平成2年6月2日よりの県総体はノーシードで臨まなくてはならず、予選ブロックの決勝はシード校登米高が相手であった。登米高もこのインターハイ目指して錬磨を重ねた高チームであり、試合は一点を争う白熱した展開となった。後半、残り8秒で同点とされたが、残り6秒で登米高が痛恨のファールを犯し、ついに49−48の一点差で逃げ切り、事実上インターハイ出場を決めた。決勝リーグでは仙台二高を一蹴、仙台高には敗れたものの、東北大会、インターハイに駒を進めることとなった。宮城インターハイ、バスケットボール競技は2年8月1日より仙台市体育館を主会場として開催された。一高の一回戦の相手は宮崎県代表都城農業高であった。一高は厳しいディフェンスで相手を押さえ、後半も速攻、スリーポイントシュートを決め楽勝した。2回戦は次年度インターハイ開催地静岡県代表の浜松商高であった。前半から快調にゴールを決め、ディフェンスも良く圧勝した。3回戦は2メートルを越す選手を2人擁する福井県代表北陸高で、結局その高さに屈し、ベスト16に終わった。この3日間を通じて一高応援団も大活躍であった。思い思いの仮装を凝らし、スタンドでパフォーマンス、ウェーブのし放題、「一高だ!」の大コールに選手も大いに励まされたが、地元はもとより全国からの観客、ファンにバスケットボールは試合も応援も楽しめるということを印象づけた。 3年度の総体は準決勝でまたもや仙台高と対戦したが、惜敗し、東北大会出場にとどまった。この3年間、対二高定期戦は3連勝した。また、4年度の新人県大会は三位であった。 |